うすのろと阿房な話

個人化された日常にあること 気になったことを。 白南風(しらはえ)とは梅雨が明ける6月末ごろから吹く、爽やかな空気を運ぶ南風のことを言います。

物語る能力ってなんだろべな。

機能とか実効性とか、仕組み。などには断然興味が湧くが。楽しみとか娯楽性、とかそっち方面の想像力が必要な分野においては非常に鈍い。物語る能力が乏しいと言い換えることもできるか。

 

受け手として物語に没入することは人並み程度にはできるだろう。しかし、人並みに理解しているかどうかといわれればおそらく否だ。表面的な陶酔はできるが腑に落ちないという表現が近いだろうか。

 

しかしもともと語り手が物語る時、受け手が腑に落ちることを目的としているのかどうかっていうこともある。共感というのは陶酔に近い言葉だが、理解というのとは少しニュアンスが違う。

 

井戸を掘りすすめると水脈にぶち当たるというレトリックはあるが、深堀りできないから水脈になかなか当たらないのか。脈ないところをめくらめっぽうに掘り進んでるだけか。

 

共通言語で普遍的な話に落とし込むのがへたくそ。単純に語彙の問題か、テクニックの問題か。

 

物語を読む際にあまり関心のない背景描写、状況設定などはほとんど頭に入ってこない。心理描写や会話などが興味の中心になる。場所の描写やそれまでの背景などが一つの会話の内容に決定的な違いを与えることだってあるだろうに。

 

映画を見ていると他の客より3秒早く笑うことが多々ある。先読みしているからか、伏線を先回りしているからか。没入するより観察的な視点からかな。

 

時々は、とりとめなく。