うすのろと阿房な話

個人化された日常にあること 気になったことを。 白南風(しらはえ)とは梅雨が明ける6月末ごろから吹く、爽やかな空気を運ぶ南風のことを言います。

映画の話。

昔の映画でおススメというより、内容や質感を憶えている、印象的な映画。

 

「息子」

男はつらいよ シリーズ」

未来少年コナン

ピンクパンサー

「海が聞こえる」

 「楢山節考

八甲田山

「幸せの黄色いハンカチ」

羅生門

里見八犬伝

「善人の条件」

「24の瞳」

犬神家の一族

南極物語

 

 

パルプ・フィクション

 「タクシードライバー」

 「アラビアのロレンス

ベン・ハー

「激突」

ジョーズ

インディ・ジョーンズ part1」

レッド・オクトーバーを追え

アンタッチャブル

「パーフェクトワールド」

フィールド・オブ・ドリームス

「ウェストサイド・ストーリー」

羊たちの沈黙

「卒業」

「クレイマー・クレイマー」

スティング

ディア・ハンター

 「ゴッドファーザー シリーズ」

「レオン」

レインマン

「逃亡者」

「LA・コンフィデンシャル」

地獄の黙示録

バグダッド・カフェ

「タワーインフェルノ

「2001年 宇宙の旅」

「時計仕掛けのオレンジ」

ガタカ

ニューシネマパラダイス

フレンチ・コネクション

「ダイヤルM」

ポセイドン・アドベンチャー

エデンの東

「戦場にかける橋」

炎のランナー

「いまを生きる」

「めぐりあえたら」

バックドラフト

「エレファントマン」

 

バタリアン

13日の金曜日 初期の2.3作」

 

 

ストーリー

時代設定、状況設定

キャラ設定(人格、、特性、口調、台詞、容姿、背景)

は勿論重要な所だが。

 

他にも、視点の置き方、動かし方、動き方が違うと物語が全然違って見える。そういうのが明確に出る所が映像作品にはある。観客はその視点の制約がある事によって考え方が制限されている、あるいは誘導/教化されている。演劇や芝居などにはない特徴だ。

 

昔の映画を見ると今の流行のものとは忙しなさ感が違う(他の言葉でいうとスピード感が違う/どんどこ視点が変わる。洋画で記憶にあるのはパルプフィクション辺りからか? ER(医療TVドラマ)では、場面転換、視点を持つ役がコロコロ変わったり、ピースが組み合わさるようにして、終盤に全体の場面や流れが1本に集約していく。

 

パラノーマルアクティビティでは殆ど変わらず、狭い視点が続いて全体の状況が掴めないので、どん詰まり感が印象づけられたり。と、こんな展開/見せ方の仕方があるんだ。と、映像技術/ 演出技法 の進歩に関心したりする。

 

日本の漫画のコマ割りとか、アニメの手法とかもかなり相互に影響してそうな気がするが。どうなんだろう。

 

流行のスピード感のある映画に慣れると、ゆったりと/装飾を抑制したモノが逆に新しく思えたりする。観る側の慣れ、状態によって印象がガラリと変わる。

 

映画も色々だ。

 

別にクリエイターでもないので、こんな判別や選別を列挙した所で何の役に立つわけでもない。しかし、作り手の意図とか技法によってどのような印象付けができるのとかを聞くと、ただ観客として見ただけじゃ分からないことが無数にあるものだ。

 

しかし、それは単純に作品を鑑賞して楽しんだり、そこから何かを感じようという意志からは邪魔なのかもしれん。そこは未だによく分からない。