うすのろと阿房な話

個人化された日常にあること 気になったことを。 白南風(しらはえ)とは梅雨が明ける6月末ごろから吹く、爽やかな空気を運ぶ南風のことを言います。

原発コスト計算の内訳はどのようになっているのか。

原子力発電が止まっているため、代替エネルギーとしての輸入される燃料費が年間ウン兆に及ぶという試算が出ている。この試算の内訳はどのようなもので、何のデータを根拠にしているか、誰か知っているだろうか。

 

エネルギー政策の方向が数%違うだけ、そして、その時期が1年ずれるだけで莫大な資金が投入され潤う業界、原子力政策を推進して潤ってきた団体の損害。ステークホルダーの及ぶ範囲も広大で、いろいろな利益が交錯している。

 

どちらにしろ財政的に最終的なバックアップをするのは広範な意味での国民だ。それも現在の財政だけでなく、廃棄物処理という何万年のスパンで考えなければならない一大事業が待っている可能性もある。(そもそも地球規模の影響が発生しうる問題、核拡散の問題や廃棄物の管理など、一国の単位で進めていいのかという見方が出てこないのが不思議でならないが。)

 

一概に、原発を即時0にして停止しさえすればいいと主張している人々が、国民の大多数の利益を念頭に置いているかどうかはわからない。日本が原発を0にしたからといって、近隣諸国で原発由来の事故が起きて(韓国も持っているし、中国も新設で何十という原発の立ち上げが決まっている)での事故の恐れがなくなるわけではない。

 

※寧ろ 日本で同様の事故が再発するより、中国での事故の恐れを心配した方がいいのではとも思える。最新の技術を投入できる利点はあるにせよ、数も多い、安全や環境への影響を考慮する姿勢には現状も不安があるし、事故を経験した日本は二度と繰り返せない部分はある。

 

 

 とりあえず財政的な面での危機感を煽ってそれを根拠に再稼動に持っていければ、その内事故当時の危機感が国民になくなり、有耶無耶の状態にまで持っていけるだろう。そして現状の体制が維持され権益が確保され ”めでたしめでたし” という目算のある趨勢もいるかもしれない。

 

財政的な面がクローズアップされる事が局面局面であるので、本当に現実的に妥当な試算がなされているのか、今後も現実的な選択肢を提示し、未来からの検証に耐えうるだけの、第三者的つまり利害関係を除いた客観的な視点を持った人間により試算されているのか、しっかり見極めたいところではある。

 

事故の確率は、計算上、数京分の一です。とか100%安全で現実的には事故が起こる可能性は0に等しいです。とか、ストレステストを厳重に出来たので問題はありませんとか、コストは化石燃料の数分の一とか、推進するためだけの目的を持って集められた数字などではもう通用しないだろう。

 

また、いつ、原油産油国周辺での政情不安や、極東での諍いが起こり、原油価格が暴騰するかもわからない。

 

第二次世界大戦東南アジアインドネシア)に侵攻したのも、戦線の維持のために必要不可欠な石油資源の権益を確保するため、その結果、米国に石油の輸入を止められ、まず、勝てる見込みのなかった無謀な戦争を米国相手に挑まなければならなかった。

 

歴史的にみても資源が乏しい日本が海外の資源に過度に依存せず自前の安全なエネルギー資源を確保する機会にする気はないのだろうか。アメリカにも中国にも、先駆けて日本の技術を結集し、新しいエネルギー体制を構築する気はないのだろうか。

 

ガバメントではなく、総体としての国民の立場で言うと、大きい、小さい、行政単位、様々あれど、暮らしに近い所で安全にしかも、持続的に発電出来るような体制があれば、政府のゴリ押しやエネルギー不足をたてにした煽りをちゃんと跳ねつけ、現状のエネルギー政策に異を唱えることが出来る。地域単位で国への圧力を高める事だってできる。

 

必要最低限のエネルギーはどれくらいか、現状のエネルギー供給が途絶えた時にどう、暮らしを賄っていくのか、どうしても電気がなければならない所はどこなのか、その目算が現実的に見えてくれば、石油価格(外国由来の燃料資源)にここまで振り回されない判断ができるはずだ。

 

そのために必要な新エネルギーの開発への投資と、持続的に代替しうるエネルギーを早急に一定程度の割合を確保すれば、原発の停止が財政的にもコスト上でも現実的なものとして捉えることができるようになるだろう。

 

寧ろ、今回偶発的な原油安によって事実上浮いた燃料費分の何割かでも民間のエネルギー産業の勃興や普及、新技術の開発や、水素ステーションなど、新規技術への投資に注力することで選択肢を拡げる必要はあるだろう。その為の負担を長い時間をかけて負って、育てていく気があるかないかだけだと思うが。

 

原子力を計画してメインの電力になるまで30-40年?となると、30~40年先を見て、新規エネルギーの導入に向けて投資を怠たることは出来ないだろう。今回の原発事故の影響は40年後には霧散しているだろうか?おそらくそうはなっていない可能性の方が高いだろう。

 

あの時のエネルギー政策の方向転換は間違っていなかったといえる現実的な選択肢を40年後に提示したいところだ。

 

映画の話。

昔の映画でおススメというより、内容や質感を憶えている、印象的な映画。

 

「息子」

男はつらいよ シリーズ」

未来少年コナン

ピンクパンサー

「海が聞こえる」

 「楢山節考

八甲田山

「幸せの黄色いハンカチ」

羅生門

里見八犬伝

「善人の条件」

「24の瞳」

犬神家の一族

南極物語

 

 

パルプ・フィクション

 「タクシードライバー」

 「アラビアのロレンス

ベン・ハー

「激突」

ジョーズ

インディ・ジョーンズ part1」

レッド・オクトーバーを追え

アンタッチャブル

「パーフェクトワールド」

フィールド・オブ・ドリームス

「ウェストサイド・ストーリー」

羊たちの沈黙

「卒業」

「クレイマー・クレイマー」

スティング

ディア・ハンター

 「ゴッドファーザー シリーズ」

「レオン」

レインマン

「逃亡者」

「LA・コンフィデンシャル」

地獄の黙示録

バグダッド・カフェ

「タワーインフェルノ

「2001年 宇宙の旅」

「時計仕掛けのオレンジ」

ガタカ

ニューシネマパラダイス

フレンチ・コネクション

「ダイヤルM」

ポセイドン・アドベンチャー

エデンの東

「戦場にかける橋」

炎のランナー

「いまを生きる」

「めぐりあえたら」

バックドラフト

「エレファントマン」

 

バタリアン

13日の金曜日 初期の2.3作」

 

 

ストーリー

時代設定、状況設定

キャラ設定(人格、、特性、口調、台詞、容姿、背景)

は勿論重要な所だが。

 

他にも、視点の置き方、動かし方、動き方が違うと物語が全然違って見える。そういうのが明確に出る所が映像作品にはある。観客はその視点の制約がある事によって考え方が制限されている、あるいは誘導/教化されている。演劇や芝居などにはない特徴だ。

 

昔の映画を見ると今の流行のものとは忙しなさ感が違う(他の言葉でいうとスピード感が違う/どんどこ視点が変わる。洋画で記憶にあるのはパルプフィクション辺りからか? ER(医療TVドラマ)では、場面転換、視点を持つ役がコロコロ変わったり、ピースが組み合わさるようにして、終盤に全体の場面や流れが1本に集約していく。

 

パラノーマルアクティビティでは殆ど変わらず、狭い視点が続いて全体の状況が掴めないので、どん詰まり感が印象づけられたり。と、こんな展開/見せ方の仕方があるんだ。と、映像技術/ 演出技法 の進歩に関心したりする。

 

日本の漫画のコマ割りとか、アニメの手法とかもかなり相互に影響してそうな気がするが。どうなんだろう。

 

流行のスピード感のある映画に慣れると、ゆったりと/装飾を抑制したモノが逆に新しく思えたりする。観る側の慣れ、状態によって印象がガラリと変わる。

 

映画も色々だ。

 

別にクリエイターでもないので、こんな判別や選別を列挙した所で何の役に立つわけでもない。しかし、作り手の意図とか技法によってどのような印象付けができるのとかを聞くと、ただ観客として見ただけじゃ分からないことが無数にあるものだ。

 

しかし、それは単純に作品を鑑賞して楽しんだり、そこから何かを感じようという意志からは邪魔なのかもしれん。そこは未だによく分からない。

 

日本は厳格な政教分離の国ではないと考察している。この考えに間違いはあるんだろうか。

どうしても腑に落ちない。信仰の自由があるにも関わらず、政教分離の原則が 確固としたルールの中で謳われているにも関わらず、

 

君が代」の斉唱を義務化する向きがある。君が代の成立年代は 立憲君主制をとっていた時期だ。今は憲法上、天皇は国の象徴(シンボル)だ。国家神道を崇拝しておらず、天皇家への信仰がない他宗教の信徒が国籍を有するだけで 天皇家の永劫の存続を願う歌を”強制的に”歌わされる。

 

自分自身の考えの基本ははノンポリ。で、好きな人は歌えばいいじゃん、信仰の自由だよそれと思う。国を好きなのは悪くないよ全然。寧ろ良いことも沢山あるよ。

 

 自分自身、天皇家が存在する事への悪感情はないし、象徴として(模範的)な大きな責任ある立派な行動をしているとも思う。国家神道を信じ、それで幸せになる人がいれば、それは誰も悪いこととは言えないとも思う。

 

とは思うが、ある特定の宗派への忠誠をおカミに強制されると話は違うよね。国への愛?地理的な共同体への帰属意識はある(他の国の構成員ではない程度のものだが)が、愛を強制する段階って経験的にかなりヤバイ。建前だけ好きになれって言われても、ちゃんちゃら可笑しいよね。そういう人は裏で肖像画に小便引っ掛けてるよ。そういうもんだよ。

 

イスラム教に悪い感情は皆無だけど、イスラム教の教義を厳格に守らねばならない国の国民になりたいとは思わない。神道、仏教、耶蘇教、ユダヤ教、別にどんな宗教だって同様。日本においては、大きな政治体においての施政の道具の側面とは少し距離をおいた、暮らしの中から出生した土俗の素朴な信仰の方がまだ馴染みやすそう。

 

そういえば、隣国を鬼のように揶揄してたじゃん。そういう意味でも強制したら風刺とか野次る正統性なんかまるでなくなる。

 

国のシステムへの恩恵は受けているし、課題はあっても総体として他の国と比べて悪いなんて言う理由これっぽっちもない。文化や歴史の中にも誇れるものも山ほどある。

が、それを好きじゃない人が強制されてみなさいよ。下手したら心の病気になるよ。

 

そういう、非常に政治的な問題であるのに、統合の道具のように宗教(天皇を中心とした神道崇拝)を利用する。

 

権力中枢はまた宗教の問題を統率の道具にするのか、戦争責任の問題もあやふやで済ます。というか、そもそも天皇は国外に攻め入って当該国の住民に苦難を強いる、侵略戦争など全く求めていなかったという話まで出てくる(事実かどうか検証は必要そうだが、公的な検証などさせないだろうが)なんで国家主体で戦争の開始という、最も責任ある国権の発動に関して自分の意思に反した決断を命じたのか。素朴に疑問。

 

 それがもし事実なら、滅茶苦茶問題あるだろ。寧ろ、もし敗戦の段階で天皇に責任を負わせたら、戦時は都合のいいように神勅として国民統合に利用しておいて、敗戦の段になったら、スケープゴートにした。ただの道具として利用しました。なんて後世に語り継がれる構図になってた可能性すらあるかもと邪推すると、怒りすら芽生えて来る。これが邪推であれば専ら幸せだね。

 

歴史の中でも 天皇という権威を時の権力者がいいように利用してきた経緯はいくらでもある。だから特に国歌を万が一強制する必要がある状況が生じたとしたら、宗教色をなくしたものでないと信仰の自由、政教分離を支持している憲法との齟齬が生じる。

 

現代版の踏み絵?他人の信仰の自由を尊重しないのに、国家への愛を強いる?

もし日本が好きだとしても、その感情をお上(権力をもち物理的強制力をもつ存在)に強要された段階で逆に大嫌いになる人、山ほどいる。絶対に。

 

なんだろうね、無知だからか施政者に対する懐疑の余りか。それは置いといても、何がしかに対する信仰を強制・強要されることに対する感情的な持論だから、国のあり方とか権力基盤とか、知識云々や理論とは全く関係ないとは思うけど。

 

いや、単に今後、ギスギスした危うい方向に進まなけりゃいいなと思ってるだけなんだよ。何かを信じるって行為は結構、パワフルだから。心の底から喜んで爆弾しょって相手を殺す為に自爆する事すら志願するのが可能な位。

 

 

未来の完全な予想など出来ないと思うし、思いたい。だが、大きな流れと意図を想像(シナリオ化)することであっても、ある種のリスクに対応する事が出来るはずだ。

経済学者や、企業アナリストの予想が外れることに対しての批判があったので、それに対しての異論を。

 

学者やアナリストの株価予想には、前提条件が存在する。それはいわゆる過去の”死んだ”データから前提条件を算出するもので、それで未来予想が完全に出来るのなら、不確実な未来を予想し、あるシナリオとポジションを持ち動き、利ざやを稼ごうとするトレーダーは不要になる。大きな富を動かせる組織や人物なら、そもそもその前提条件に入らないように水面下で動き趨勢(予測)に逆らうような動きも可能だ。

 

 ある種の情報を流通させることで前提条件を変える事だって可能だ。年金基金の巨額なお金(といっても、日本の株式市場に投入されている総額から見れば、数%でどれほどのインパクトがあるのかは疑問だ。額面どおりと受け取っても、実質的には日経平均を数%(数百円~1000円)上げる程度だと考えている。)しかし、そのアナウンス効果によって短期的にそれ超えて株価に影響を及ぼすことも出来るだろう。

 

 それより、むしろそのままにしているだけで、実質的に目減りする(年金)資金をそのままにしておくなら、今後、数値的には上がる、むしろ”あげる”と表現した方がいいかもしれない 事が決まっている部分に割り当てて、”収益を得た” という印象をつけたいのかもしれないと勘繰っている。

 

あるいは、インフレや、円安による物価高は年金生活者に対しては実質的には収入の大幅減になりうる、それをもって社会福祉への支出比率を小さくしようとしているのか、それを意図していると”すれば”かなり荒療治だ。

 実際に政治的に社会福祉システムの大きな変更を強いるような政策の提案が難しくなっているし、政権の支持基盤の抵抗は必至だ、政権の根幹が揺るぎかねない。そのため、そういう荒業を使わなければ対処できないような本当の難所にいるのかもしれない。そちらの方が注目すべきか。

 

理論と現実の関係の話をすると、

数学の分野の1つにもなってるような、複雑系とか動的平衡の考え方を聞くと、常に個々の人たちがいろんな動きをしている中で現状または均衡が保たれている(ように見える)わけで本来、趨勢に関わりそうもない、ほんの小さな出来事によりその平衡が崩れて予想を超える大きな影響を及ぼすこともある。世界の頭脳の粋と巨大なPCがあればそういう事さえ、予測しうるんだろうか。それはそれで恐ろしいが。

 

言葉(理論)の中で決着がつく、言い換えれば原因-結果の因果関係がはっきりし得るのは環境や条件が担保される 実験室や、頭の中、純粋なゲームとかの場合だけ。現実にそんなことはほぼありえないと皆知ってるから、補則条件とかつけるんだろう。確たる情報もってても、いきわたった時点で、それを前提に加えた上での予想が出来上がる。

現在の株価は 現在、”世間に出ている(入手しうる) 情報”を前提とした半年先の企業の価値の事だと言われている。逆に言えば、今ある確実な情報だけで未来予測(株価予想)をしようとしたとしても 向こう半年以上の予測しても、それほど有益な結果を得られないという事なんではないのか。

 

アナリストや専門家の株価予想が外れたと揚げ足取りをする意味などあまりないし。競馬の予想屋に文句を言うのは筋違いだ。どんなに優れた分析をして予想を立てたとしても、その情報が世間に出た時点で予想が確実なものではなくなるからだ。

 

 世界的に大きなインパクトを与える出来事を、いついつに発表する。なんてのが、例えば、優秀なハッカーによって誰にも知られずに、インサイダーと同じような情報が事前に得られれば、市井に出回ってる情報との格差でほぼ確実に儲ける事だって出来る。だから、世間に出回る情報以上の情報にアクセスできない市井の人が、特に短期的に株で確実に儲けるなんてことはそもそも考えない方がいい。

 

  バブル(投資の世界での理屈を超越(あるいは無視した)熱狂)が何故出来るあがるかというと、ほぼ高い確率で儲かる(または今まで大きな利益を得た事実がある/が本当は将来的には不確定だがそれは強調しない)という情報を出来るだけ多くの人に流布して資本を集中させ、その儲かるシステムが破綻する前に売り抜ける。そういうのは金融の世界では常に行われていることだろうし、法外に大きく利益を得られる人がいるのは損をいる人達がいるから。そういう単純な話を、大きく儲けようと仕掛ける人達はなるべく市井に出したがらないし、損をする人達においてもなぜか耳に入れようとはしない。不可解。

 

 無限に儲かることなんて現実ではありえない。スーパーマリオ無限1upだってプログラム上のバグだろう。

 

 その仕組みがどのようにして利益を出しているのか、ちゃんと調査して、現実的な前提条件を考えた上で理論上可能な範囲と市井に流れている希望的な観測やポジティブな情報の格差を考えてみれば、大きなポジションを取って市場を動かせる人や組織、政府や管理機構を含め、特異な情報に接触できる人達に対して遅れを取る事を相対的に小さくすることは出来る。そういう意味では理論や分析を利用する価値は十分ある。

 

 世界的に問題となったサブプライムローンだって、世界中で最も頭の良いと呼ばれている人たちが、仕組みを考え、中身のわからないようにある種のリスクのごった煮の福袋にして普及させて、一部の分析家や学者でさえ、そのものに一体どれくらいのリスクがあるのかよくわからないようにした事で、世界的に行き渡り、その破綻が大きな影響を及ぼす原因になった。

 

作った本人達は破綻の前に確実に売り抜けているはずだし、大きく張った投資銀行は一見、一部は破綻し大きな損失を被ったが、他の一部は政府からの保護策を引き出すことで、損失を世界中の一般的な投資家やその仕組みに乗った米国民に押し付けることに”成功”した。

 

 こういった世界の歴史をみても、世界で始めてのバブルであるチューリップの大暴落が起きてから、基本的に儲かる情報は、仕組みを作ったところか、儲けるところが握っていて、儲けようと思ったらそれを独り占め、または他を出し抜くことによって儲けている。というのは一攫千金を夢見る人が関与する金融の世界からすると至極、現実的な考え方だろう。

 

 そういう形でない金融の有益な部分ももちろんある。米でここ数十年で最も利益を出し続けているという、投資ファンドの1つが、長期的な視野で、その事業がどういうことをやって儲けるのか、今後、社会的にどれほどの影響をもたらすのか、それを調べ抜いて、他より早く投資・提携(青田買い)することで、その企業の未来においての世界に及ぼす影響力を最大化して、その恩恵を得て財を築いているらしい。

 

 そういう大きなポジションを占める事が出来、情報収集に優れている立場の組織や人と、市井で平均的な情報を持った人のポジションがどう異なっているのか、考えてみるだけでその情報の格差というのはわかるんじゃないか。仕掛けようとする立場からの情報を得ようとするのは根本的に間違っている。

 

儲かるという情報も本来確実な情報と受け手に対し真摯に流すのだとすると、確実に儲かる話なんて表現は使わない。流布した時点で、他から介入される可能性があって、絶対にはなり得ない。

 

他からの介入がなければ、ほぼ確実に利益が出しうる情報でも、大きなポジションを持った立場の人が、恣意的な介入をすれば大きな損失を被る情報にして”しまう”ことだって出来る。だから確実に儲かるなんて受け手に対しての誠意が ”もしあるとすれば” 普通の人間は使わない。

 

そういうのは言葉や情報伝達の問題であって、科学や理論の問題じゃない。専門的で受け手にはよく分からない小難しい話で煙に巻かれてとしたら、問題の根っこはそんな専門家にしか理解できないような難しい事じゃない。むしろ魔術師(マジシャン)にでも相談した方がいいかもしれない。

 

国際親善試合 VS ブラジル

 

日本は初のコンビもあり、戦術的にどうこういうより、個人戦術ややり方中心。
組織的な守備もほとんどなかった。

 


伯側。

3日前ライバルアルゼンチン戦。それとほぼ同様のスタメン?コンディションはよくないだろう。基本、省エネ。走らすボールよりほとんど足元へのボールが多い。ピッチが悪いのを考慮して中盤でのミスを少なくするため、プレッシャーのかかる局面へ足もとへの強いボール、足の長い早いボールは余り使わない。楔をつける場合も近くて緩いボールが多い。

 

ボールを足元で保持。相手がプレッシャーをかけてきて喰いついてきた段階でボールをはたき次のポジションへ、敢えて喰いつかせ、次のボールホルダーへのプレッシャーを緩める効果があるか。

 

足の長いボールは一発で裏を狙うボールや、ロングフィード、サイドチェンジ、他、プレッシャーのかからない部分では見られる。ワンツーが出来る場面でも意識的にかわからないが、一端足元に納めてからのパスを使う。そこからの短い距離での壁パスなどでの突破か、ドリブル発進。

 

攻撃で押し込んだ後、相手ボールになった時の切り替えの守備はあるものの、相手のポゼッションが優位でボール奪取が困難見ると必要以上には追わない。(体力温存?)

 

守備は待ちうけが基本、選手間の距離はギチギチではなく、やや緩いくらいにも見える。相手が余裕ある場合はある程度持たせるが、中心部分に入って来るパス。トラップした瞬間、パスややずれた瞬間のチェックは鋭い。中央は硬い。

 

MF以下、アジリティの能力と守備への意識の現われ。

グループでの熟練度のない段階で、個人戦術、個vs個の戦い、ピッチ他、局面に対する判断能力などがメインで進められる。個人の能力、アドリブ力、荒れたピッチに対する耐性などが、見られた試合。前半は相手の様子見的なテンションもあって、チャンスも作る。


が、伯側からすれば、初っ端は相手の出方をみてあまりガツガツせず省エネ、無駄にボールは失わず安パイの選択、時間経過させても良い、ゆったりボールを廻しながら、相手に隙をみつけたら、すかさず前につけ、10番のドリブルか、ワンツーなどで局面打開。

前半は10番の個人戦術を利用した速攻が目立つ。前半1点取った段階でチーム状況に余裕が出る。得点した事によってより無理に攻めない。相手ボールにして失点するようなリスクを減らす。省エネで且つ、できるだけ自チームのポゼッションの時間を長くする。

おおまかにはこういう流れか。

 

日本側

相手のそういう構えの中で、個人的に対抗できていた1トップの絡んだ攻撃が、少ない有効打を生み出す。

1トップへのアーリークロスや、体力面で余裕があった前半は中央でクロスに絡む人数もいて有効打はいくつかあった。しかし、そこからのクリアボールをほぼ相手に拾われ、ほぼ保持される苦しい展開。

ピッチがより荒れている中央部分でのミスパスやトラップミスが多く、中盤の構成は作れず、相手ポゼッションが長く体力的だけでなくメンタル的にもかなり劣勢に立たされる。

後半、入った4番は十分ケアされ、ほぼ封じられる。TOPに入った若手選手はアグレッシブな姿勢を維持、強みのスピードで勝負を挑む。チャンスになりかかる場面もあったが決定打までには到らず。

 

個々を見るとフィジカルやテクニックは相手が優位なのは確か。

しかしそれ以上に、全体として意図したものか、身体に染み込んだものかはわからないが、相手と自分達の能力そのものより、自分たちの現状もつ能力をより優位に発揮できるような戦い方の判断がスコア以上にゲーム展開を相手優位に見させた原因か。

後半、特に最後の方は高校選抜クラスのチームが、公式戦を1試合終えた後に、サッカー好きの同好会相手に練習試合をもう1試合した。それ位の差のある、余裕ある戦いをしていた。


若手に多く経験させた方が長期的に見て得るものが多いのは確かだろう。世界との距離を体感できる。常に世界で揉まれている選手にとって見れば、既に知っているため得るものは相対的に少ないだろう。

0-4の結果にネガティブになるより、
個々の間合い、相手の多用な引き出し、有効な力の出し方戦い方、判断のスピードや質をインプットして日々のトレーニングや、試合への入り方でリロードしていけばよりポジティブに受け取られることが出来る。